錆による表現

昔、空き地で拾った鉄くずを使ってコラージュ作品を作っていたことがあるのですが、手に付いたボロボロの錆を見て「これで絵、描けるんじゃね?」と思ったのが、現在の作品の元です。その後、制作への関心を失いつつ、いつのまにか30年経ってしまいました。東急ハンズで鉄粉を偶然発見、ボンドと混ぜたら絵の具になるなと思いついたのが15年前です。

描いた絵を錆びさせるというのは、ほかの誰もやっていない発見だ。ずっとそう思っていたのですが、調べてみると焼き物の技法で絵付けに「錆漆」を用いる「錆絵」というものがあるようです。錆で描いてる人は、誰かいたりしないのかと探してみたら、錆びた鉄板に絵を描く人、錆びた鉄板の一部を磨いて表現している人、シルクスクリーン印刷で制作している人などがいることもわかりました。オモンパカルで出会った彫刻家の方も、学生時代に手に付いた錆で絵を描いたりしたことがあるとのことで、誰でも思いつくことみたい。

ほかにも相澤安嗣志さんという方は本格的に美術作品を発表していて、鉄を腐食させて立体作品を制作されています。モチーフが花で、展覧会のタイトルが「Flowers」。僕と同じ、というか、僕が真似したみたいだなあ。

東急ハンズには工芸品の表面加工向けに錆を演出する塗料が売られていました。プラモデルの塗料にも、たとえば壊れた戦車の錆を表現したい時に使うものがあるそうなので、プラモ愛好家にとっては馴染みのある表現なのでしょう。

錆で描くという方法も珍しいわけではないようですが、今のところ僕の絵には他にない独自性があるので、自分の世界を広げていこうと思っています。

作品の技法について

展示作品は木工用ボンドと鉄粉をまぜたものを絵の具として、筆で紙に描いています。自分で思いついた技法なのでお手本はなく、実験・失敗・工夫を繰り返し、苦労の連続です。

鉄はもともとダークグレーなのですが、書いてまもなく錆びはじめ、数時間で茶色に変色します。濃度の違いなどちょっとしたことで色の変わり方も違うので、描いているうちは、想像しながらの作業でした。これまで数十点制作したうちの何点かは「なんでこんな色になったのだろう」と思います。

難しいのは、濃淡による表現です。薄い色をむらなく塗るのは特に難しいため、背景の面が広い部分は飲み残しのコーヒーを加えています。これは友人であるアーティスト「フジイフランソワ」が、画材に紅茶を使っていることがヒントになっています。また、焦げ茶色にしたい場合に、墨汁を混ぜたりもしています。

ボンドなんてどれも一緒かと思っていたら、メーカーによって書き具合や仕上がりの質感が微妙に違ったりします。鉄粉の定着剤としてだけでなく、書きあがった絵のコーティングにも使っています。鉄粉で書いただけのものは、一般的にいうまさに「茶色(アンバー)」なのですが、ボンドを重ね塗りすると、「こげ茶(バーントアンバー)」になり、絵が味わい深いものになります。

ボンドを使うと乾いた後で予想外の色になることも多くて楽しいのですが、乾燥が早いので筆がすぐにボロボロになるのが難点です。

「これ、なんていう技法なの?」と聞かれることも多いのですが、自分で思いついたもので、特に名前はありません。カテゴライズする必要もないし、別にどうでも良いのですが、強いていうなら「錆画」ということでしょうか。

花を描くきっかけ

誰かの絵を真似たり、参考にすることはありませんでしたが、写真作品をイメージしたところはいくつかあります。

花を描くきっかけは、そもそも好きということのほかにもあります。大好きな写真家「アーヴィング・ペン」の代表作がまさに「FLOWERS」で、その憧れが、花を描く動機のひとつになっています。全体に濃く塗り重ねた絵は上田義彦さんの静かで深い写真を、白背景で花だけを塗りつぶした絵は、アルバート・ワトソンのポートレート写真のライティングを参考に。しかし、見た目は全然違うので、ヒントになったということに過ぎません。

美しい風景を目にした時、写真に収めたいと思うのは自然なことです。自分も同じように素晴らしい絵を見た時には「こんな風に描きたい」と思います。そうした場合にヒントや参考にするのは良いとしても、度がすぎると「パクリ」ということになってしまうので、気をつけたいところです。

クリエイティブって

「クリエイティブ」。直訳して「創造」というと大袈裟で違和感を覚えますが、ものづくりにおいては新しい表現方法であることや、新しい価値観が生み出されていること、それらが高品質であることだと僕は考えています。

広告、音楽、WEB、建築など、ものづくりに携わっているというだけで「クリエイター」を自称する人は多いけれど、本当にクリエイティブだといえる人はごくわずかです。みんなそんなこと深く考えていないのでしょうけれど、「クリエイティブ」という言葉は僕にとってとても重要なもので、「クリエイター」というのはおこがましいとさえ思います。「じゃあお前は何なの?」と問われたら、「ただのグラフィック・デザイナー。デザインの仕事をしているというだけ」ということに。気楽に考えれば良さそうなものですが、その考えはなぜか捨てられません。

30代半ばまで過ごしていた名古屋には「中部クリエイターズクラブ」という団体があり、定期的に自主企画のポスター展を開催するなどの活動をしています。向上心に溢れた人たちが精力的に活動していて、多くの若いグラフィック・デザイナーの憧れの的でもあり、僕もそのうちのひとりでした。しかし、経験を重ねるにつれ分かってきたのは、それらの作品はパクリだらけということでした。

デザインの専門学校生だった僕の卒業制作も実はパクリ作品で、「サイトウマコトさんみたいにしなさい」と担当先生に言われ、「人真似は嫌だなあ」と思いながら制作したのをよく覚えています。バブルの頃のアート志向のグラフィック・デザイナーは「引用」という言葉とともに、現代美術作品の真似ばかりしていた時代。その後、そういうデザイナーにはなりたくないともずっと思っていました。しかし、デザインの現場ではクライアントの要望があるなど様々な状況次第で、そうせざるを得ないことも少なくありません。

サイトウマコトさんのポスターはパクリと批判されることも多いけれど、そういう批判を吹き飛ばすだけの突き抜けたオリジナリティがあって大好きです。だからといってサイトウマコトさんを真似しようとは思いません。もちろん、なろうとしても絶対無理だし。なんて書いていますが普段のデザインの仕事でも誰かの作品を参考にしたり、影響を受けたりしながらやっているので、程度の違いがあるだけどパクリと一緒と言われたら、そうかもしれませんです。

僕の絵画作品はデザインの仕事を離れ、オリジナルの技法で、何の制約もなく作ったものです。「やっと、クリエイティブ」といいたいところですが、重要な「高品質であること」が達成できていません。高みを目指しているのだけれど、過渡期はまだまだ続きそうです。